皆さんこんにちは!
イベント21小杉です。
会社で自分の歴史を書くという課題があり今回恥ずかしいですが自分の歴史を振り返ってみたいと思います!
【小杉爆誕】
1995/02/03静岡県牧之原市に建設の自営業をしている小杉家の長男として小杉泉貴が生まれました。
父がお祭りの屋台長をやっていたこともあり、祭大好き人間である。自営の父の影響もありよく人の上に立つとは?見たいな話をよくされ幼い時から外に出ていろんな経験をしなさい、という教えのもと静岡からは何かしらで出ななければいけないという考えを叩き込まれる。それがのちのイベント21でマネージャーになる僕の人生のスタートである。
【小学校~高校】
親戚の人が剣道の先生をやっていたため剣道を始めることに。本当はサッカーや野球がしたかったがとりあえず続けてみなさいと言われ高校まで剣道人生を歩みます。地元は剣道が盛んで昔は全国大会常連の地域。その名残からいろんな遠征がありました。厳しい先生に育てられ中学の時は東海大会まで駒を進めることができたのがいい思い出です。今でも剣道やっててよかったなと思うは、しっかりとした上下関係を知れたこと。車で送ってもらったときは見なくなるまで頭を下げること笑(これは社会人になった今でも意識してやっています)
高校は地元に3つある高校の頭がいいA高校、普通のB高校、馬鹿高のC高校のうちの普通のB高校に。なぜか上、中、下で分かれていたのですごく進路は決めやすかった。理由は下は嫌だけど上を狙う頑張りはしないだらけた性格だったから。
普通科に入学いたが基本的に学歴はほとんど下。
数学で赤点を取って部活に参加できず反省坊主、化学のテストでマジで0点を取ったが恥ずかしくて親に「名前を書き忘れた」とごり押しをしたのは今でも黒歴史である。
剣道も何となくでやっていたので特に大きな成果はなく。地元就職もしくは剣道続けたら警察官もしくは消防士というめちゃくちゃ決められた道は歩みたくないな~という漠然とした思いと胸に行ったケツメイシのコンサート。めちゃくちゃ華やかな世界を体感し、それを裏で支える人はどんな仕事なんだろうと思いエンタメ業界に興味を持つ。もともとトランシーバー使う仕事にあこがれていて、コンサートの運営やったらトランシーバー使えるしコンサートに関われるし最高じゃん!そこから調べて東京にあるエンタメ専門の学校に通うことになります。のちに僕の母校はイベント21の社員を多く輩出する関係に。天下り先とは言いませんよ!(笑)
【専門学校】
ケツメイシのライブを手掛けたいと思い一人静岡から上京。上京する日に父親から「只、我武者羅に」と言われたことが今でも印象に残っているし自分の中のキーワードである。
東京で一人暮らしを始めた僕。そんな僕にとって何よりもいろんな県の人と仲良くなれるのは僕の中でものすごく刺激的だった。自分よりも面白くて頭がぶっ飛んでる友達がたくさんできた。その中で女物のタバコ吸っていて何でそんなタバコを吸ってるのかと聞いたら「死んだ親戚の人が吸ってたタバコ」というかなり重ためなことを言う男、千葉支店次期セクションチーフのT君と出会う。学校ではコンサートがどうやってできているか音楽の著作権など様々なことを勉強しました。
学生時代は文化祭の企画部門のチーフをしたり、後輩をまとめる責任者もやりました。高校まではそういった責任のあるポジションを真剣にやってきませんでしたが専門ではたくさんの人と関わり成長をさせもらえました。また人の上に立って動くことがこんなにやりがいがあって面白いというのもたくさん学ばしてもらいました。学年全体の2割くらいしか男子がいなかったので男子の絆は本当に深くて。全国各地に友達がいることは僕の中ですごく誇りである。
【インターン生活~イベント21へ】
先生の紹介で関東エリアでライブの運営をしている会社に名前と誕生日が一緒の子とインターン入社をする。学校をまともに行っていなかった僕は週末だけのインターン参加。もう一人のみずきは学生生活をしっかり送っていたためほぼ毎日インターン参加。そこでめちゃくちゃな差をつけられる。現場では「もう一人の泉貴は馬鹿だもんな~」と言われ心が荒みはじめる。この時は本当にひどかったと思う。学校で楽しそうにしてるみんなを見て「みんなもしんどい思いすればいいのに」ってマジで思ってました(笑)T君と話をしていてもいまだに「あの時はひどかった」と言われます。
そんな荒んだ心でインターンを続けてきて、ここで本当にやっていけるのかと考え退社を決意。今でも忘れないが渋谷公会堂で「辞めさせてください」と社員さんに告げ1月にインターンを辞めた。見えていた就職先がなくなり地元に戻るかまだ東京で頑張るか考えたときにふと地元のお祭りを思いだす。規模は小さく2年に1度しかないお祭りだがみんなが笑顔でお酒を飲んで楽しく騒いでいる。コンサートみたいに規模は大きくなくてもイベントは成り立つんだなと思ったときにまだイベント業界にいたいと思い「東京」「イベント会社」で調べたらイベント21を発見。インターンも大した結果を残せず辞めて、のこのこ地元に帰るなんてできないな。上京させてくれた親に合わせる顔がない。僕にはにはここしかないと思った。そして履歴書を送り面接へ。面接の連絡をくれたとき僕は誕生日で現ステップ代表の中野聖二郎さんから「誕生日おめでとう!面接ですが・・・」と言われたことを今でも覚えています。ちなみにその日お酒を飲みすぎていてベロベロだった僕は友達に「明日14:00田端」とLINEを送らせていたのは秘密である。
【イベント21入社~神奈川支店長へ】
無事に内定をもらった僕はイベント21東京支店に入社。
そして遅れてNさん、Fさんが入社。入社時期が近かったことチームが一緒だったことで3人でよく飲んだり仕事の相談をしました。Fさんが粗利100万いったら負けじと僕が見たいな感じで切磋琢磨しながらいろんなことをしてきました。月日は流れ社長からのスタッフメールで神奈川支店を新しく出すという話が全社共有。そこでNさんと話をしてちょっと神奈川支店興味あるよねって話をして、社長と飲んだ帰りにNさんと一緒に「神奈川支店に興味があります」といいました。この時は本社から誰か来て拠点長をやるかと思っていました。そしたら僕がまさかの神奈川支店長へ。最初はマジでこの会社大丈夫か?と思った。(笑)新卒入社でまだ1年もたっていないのに。親にも相談した。お父さんから「お前はまだ若いからで言い訳できるし何もよりその経験が自分人生のブランドになる」と言われて拠点長を決意。最初の顔合わせのリーダー会(今でいうG15みたいなもの)での奈良の方々の「何でこのくそがきが拠点長なんだ」というような目線は今でも忘れない。
【2016年度忙しさとプレッシャー】
日吉で倉庫兼営業モデルでスタートした神奈川支店。自分の中で人よりも給料多くもらっているはすごくプレッシャーだった。歴も短くリーダーもやったことない人間がいきなり拠点長をするのだから。果たしてその分の働き貢献ができているのか?社長や聖二郎さんの力も借りでとりあえず見様見真似で日々を過ごす。ただ本気だったのは間違いなくてそれぞれのポジションを必死にこなそうとしてた。F君に敬語の使い方ってこうやって言えばいいの?とか文章これで間違ってないかとかよく確認してもらってました(笑)なれない倉庫作業でトラブルで走りまくる日々。昼休みみんなで集まってテントの立て方の勉強してました。トラブル続き過ぎて倉庫裏でNさんが「もうダメだ~。お祓い行きたい~」って叫んでたのを今でも思いだします。拠点長の僕、施工のNさん、営業のF君、そして別の会社を入社3か月で辞めてうちに来たO君、面接に来て「ハイ」しか言わないアルバイトのTさん。そんなメンバーで一緒に本気で神奈川支店という看板を背負ってきました。「神奈川支店をみなとみらいのランドマークタワー移してでみんなでコーヒーを飲む」それが僕たちの夢でした。
なんせ毎日がドタバタ、必死だから全体会議で聖二郎さんがいる前でNさんとF君が喧嘩したのもいい思い出(笑)必死にやってきて2016年度チーム賞を受賞。会社の起爆剤になると経営方針発表会で宣言をして入社して間もない人間でも影響を与えることが出来るという自信にもつながりました。
【2017年度神奈川支店土台作り】
めちゃくちゃ波乱に満ちた一年が始まる。この年Nさん、Kさん、K君が入社。今の神奈川支店を支えてくれているメンバーたちである。この時の組閣はサブセクにNさん、リーダーF君、サブリーダーO君、W君。初めてチームではなく拠点としての意識を持ち始めたのもこの年である。でもこの年は本当に事件が多かった(笑)ほとんどが人間関係(笑)その分向き合わなければ行けないこと、自分がどうやって背中を見せなければいけないか?を強く意識して動きました。初めての女性社員の入社で男子校出身の僕はかかわり方が分からくなる。この時のNさんの辞めたい理由は「僕が怖いから」(笑)そう考えるとNさんは強く育ったなと思います。本当に。
初開催のサマコンでは初のナンバーワン拠点賞!自分は事務所番で会場にいることはできなかったが壇上にみんなが上がっているのを想像して喜んでました。
日吉事務所時代は12畳の日吉事務所で冷房がまさかの6畳用で全員で冷えピタ貼りながら仕事。汗で書類が腕に引っ付くのにいらいらしながらの毎日。そして奈良からパワゲが来ていよいよ本格的な倉庫体制に。ただパワゲのゲートをなぜか手で上げなればならず大苦戦。僕は2人係じゃないと上げることができませんでした(笑)
【2018年度拠点長日吉新横2拠点の拠点長に】
2018年度、うちの会社は県大会止まりと面接で言ったH、ピアスを付けて面接に来るI、短文でしか返事をしないY、憧れの女の子の話をして爆笑をとったKという神奈川のエースが入社。いよいよ日吉に人数が入らないという事で日吉、新横浜2拠点での体制になる。サブセクにF君、サブリーダーW君、Nさん、施工部リーダーO君という布陣に。末広がりを意識して8階、電話番号も末尾を8にする。この年はいろんなメンバーの成長を見ることが出来た。役職としての成長、拠点としての成長。テント100張現場も決めることが出来た。9~11月は永遠にテントラッシュ。日吉の頃とは比べものにならないくらいテントに強くなった。現場に行く回数も格段に増えた(人生初のぎっくり腰やったけど)どうやって新卒を成長させるかを意識して入社後3日間の新卒研修を独自に実施。とりあえずベースだけはみんな合わせてあとは各自が思い切ってやれるように。看板が立て込んで深夜に倉庫にF君とNさんで行ったとき一人磨り出しを始めているY君に遭遇。アロハシャツ来て打ち合わせに行こうとするやつとは裏腹に仲間重いな部分を知る。そこからY君は天才だけどいいやつという名前が付く。一人一人のいいとこに気づいて伸ばしていこうとう姿勢がみんなに感じられた。単月MVPにK君を上げれなくて号泣していたNさんもいい思い出。Kさんは男性社員初の育児休暇を取得。2か月消息不明に。この時なぜかチームKがKさん無しでも目標達成をしていてKさんいなくてもいけんじゃね?という雰囲気になる。千葉支店の設立とともにF君が千葉支店長に。神奈川から初の拠点長の排出をすることが出来た。胸に神奈川背中に千葉を背負って。新横で2人で飲んだ時覚悟決めてくれたのは嬉しかった。
【2019年関東エリアマネージャー】
千葉支店長F君と悩みに悩み、いっそいいものが正反対の二人を上げたらいいんじゃない?ということでサブセクにNさん、Kさん。リーダーにI君、K君。そして今までずっと役職者不在の日吉施工部にH君が背中を見せてくれサブセクに。僕もいよいよ東日本エリアマネージャー兼神奈川支店長に。この年は僕の居場所は現場だけだと思いこみ現場にいきまくった。まさかのこの年が僕の入社歴で一番数字を稼いだ年である。メンバーが育ってきて責任感持って仕事を回してくれている神奈川メンバー。いよいよ自分は神奈川支店長としてではなく次のメンバーに引き継いでいかなければいけないと思い組閣に励む。18新卒は全員が委員長になる主体性も発揮してくれました。
【2020年度マネージャーとして】
Kさんが神奈川支店長に。いよいよ小杉体制からKさん体制に。近くにいたら僕の意見が強くなってしまうと思い、少し離れるようにしないといけないと思ったときに、福岡支店の立ち上げフォローの話が。2年前大阪支店にフォローの話し合ったとき僕も手を挙げたが社長から「小杉君はまだ神奈川を離れなれへんやろ」と言われたが今回はあっさり「めっちゃええやん!行っておいでや」と言ってもらえた。僕がいなくても支店は回ると認めてもらえた気がしてすごくうれしかった。そして福岡支店の立ち上げフォローで2か月福岡支店に。今まではあまり関わってこなかった物江森田と一緒に立ち上げにかかわれたことはすごい経験になりました。僕がやってきたことをどうやって伝えていくかをすごく考えました。飛び地の福岡支店を頑張って盛り上げていこうとしている2人をこれからも支えていきたい。
そして福岡に行った途端コロナ襲来。一気に休業体制に。出勤できる人が限られる中、社内メンバーと関わることがめっちゃ増えた。助成金関係でBOや拠点長。自分の中で枠を作って関わってこなかった所に自分か関われるようになったのはコロナのおかげかもしれない。また神奈川を離れて福岡から見ることで多角的に物事もとらえることが出来るようになってきました。また一つ大きく考え方が変わってきた中でM&Aの社長候補にもなることができました。これからどうなっていくかはわかりませんが常に全力で挑戦をしていきたいと思います。
【今後の小杉泉貴】
背中を見せること、自分にしかできない仕事をすることに力を入れていきたいと思います。また苦手な管理もできるように挑戦をしていきたいです。
M&Aの話が出たときに正直ビビって手を上げられなかった。IさんやFさんが手を上げる中ビビってしまっている自分が悔しかったです。
ただ今までメンバーに「自分の履歴書に書ける仕事をしなさい」と伝えてきてここで自分がビビってしまうのは良くないと思い社長に手を上げる決意しました。いつか社長になって経験を積めたら3代続いている実家の会社を継ぎたいと思います。建築はできないにしても何かしらの形で親が残してくれて僕を育ててくれた会社を残したいのが今の僕の夢でもあります。
インターンを結果を残せず辞めた僕、勉強も全然できない僕。常にコンプレックスの中で僕があると思います。そんな僕が役職者になったときからすごく大事にしていることがあります。それは「役職者になったら終活をすること」です。自分がいなくても次がいるそんな組織を常に意識していました。それはさっきも書いたが「小杉がないければいけない」と言われた社長の言葉があったからこそだと持っています。最初は小杉がいなければという言葉が誇らしかったが自分がとどまり続けることで組織は逆に弱くなると気づけたからです。自分が先頭を走って背中を見せることで「今のポジションを自分と会社を掛け合わせて挑戦できる人」作っていきたいと思います。神奈川も2代目。千葉も軌道に乗り始めている。自分が作ってきた道からたくさんの役職者を作れたことは今自分の中で誇りに思えることです。
【SpecialThanks】
僕がこの会社にいて感謝しなけれないけない人、尊敬する人がいる。
入社歴が長く施工面でも神奈川に色々教えて頂きいつも面倒を見ていただき、人として尊敬しかない久賀さん。
入社当初、初めて関西に行ったときに関西メンバーから信頼の厚い姿を見てこの会社でやっていく為にはこの人から学ばないといけない。率直にそうやって思いました。仕事に対する姿勢や考え方はいつも尊敬することしかないですし、僕がやらかしたときにかばってくれた恩は忘れません(笑)
東京支店のときからずっと一緒に切磋琢磨してきた古田さん
僕が赤なら青。僕が持っていないところを全部持っている人だと思います。ロジック的に物事を進められるとこ、いつも敵わないなと持っています。その分ライバルのようにも思いますし同じマネージャーとして相談できる人でもあります。
神奈川が出来たときからずっと支えてきてくれた福嶋。たぶん福嶋が居なかったら神奈川はうまく行っていなかったと思う。
良い時も悪い時も全部一緒に経験してきました(笑)一番僕を立ててくれること、だからこそ頑張ろうと思ったし自分らしさを大切にしていこうと思わせてくれました。
他にもたくさん感謝しきれない人たちがたくさんいますが、この人たちがいたから今の僕があるといっても過言ではない。経験ではなく小杉泉貴という人で判断してくれる仲間にいつも助けられてばかりです。自分も周りにいい影響を与えられる人になるように。そうやって思えるのはたくさんの人に支えられてきたからです。コロナ渦のイベント業界。こんな素敵な人がたくさんいる会社に勤めているからこそ結果として残せるようにこれからも頑張っていきたいと思います。